2024/10/28

というのを勧めてくれた

敬老の日のサプライズ・プレゼントがあった。
連休、誰もいないこともあり、グズグズしながらも昨日は、重い腰を上げて、近くの商業施設に出向いた。
やや不安と不満を残しながらも目的は60%ぐらい達成できた。
ついでに、新しく出来たスーパーやら、なんやらかんやらを回った兩文三語幼稚園
で、帰りにベーカリーショップに寄った。
1軒目は、地元デパ地下。
もう18:30を過ぎていたので20%オフ。
あまり欲しいものはなかったが、2個買った。
限りなく「オフ」に弱い。
次に、バス出発時間までの10分間を利用して、バス乗り場近くにある2軒目のベーカリーショップへ。
バスの時間も近づいていることだし、駆け足で、パンを適当に選び、レジに並んだ。
レジの若い女性に、地域特典アプリ割引利用を申し出ると、「65歳以上ですか? それなら、こちらを利用されたほうがお得ですよ」と、65歳以上は支払い代金は敬老割引で半額!!というのを勧めてくれた電機工程
あらまあ、歳は取るものだ。
いきなり、レジで半額になった。
喜びを胸にバス停に掛け込んだが、はて?
わたし、やっぱり65歳以上に見えるんだ、、、と、、、間違っていない、当たり前なのに、少し苦く悲しく残念な思いがした。
自分がどれだけ若く見えると思っているのか。
厚かましく、恥ずかしくもあった。
せめて、「60歳以上ですか?」なら、もう少しだけ(ほんの焼石に水であっても)微々たる喜びがあり、嬉しかったかも知れない。
敬老の日に、敬われて半額にしてもらったんだから、欲を張ってはバチが当たる。
清く美しい老人でありたい、、、。が。

帰りは偶然、遠征帰路の長女一家とバス停で鉢合わせ、同じバスに乗って帰った。
わたしが最後に買ったベーカリーショップの斜め前のセルフうどん屋さんで、直前に、食べたばかりのうどん、よほどたくさん食べたようで、2番目孫(小4男児)の胃が、ゆとりサイズのTシャツの上からでもわかるぐらい、パツパツに膨れていたmyob 教學
元々細身なので、わかりやすい。
  
Posted by whiteso at 11:28Comments(0)

2024/10/16

聴きたくなくても聴こえ

暑い夏、スタート。
家庭内エアコンバトルも同時スタート。
「暑い暑い暑い暑い」と、わたしに言う夫。
暑さ倍増である。
人に言って暑さが軽減されるのか。
発散して少しでも温度が下がるならまだしも、言われるほうは、耳、聴力も正常なので、聴きたくなくても聴こえる。
これは、わたしは、一種のハラスメント認定しているStudy in China
先日、お会いしたある人が言っていた。
夫婦は離れて暮らすのが仲良く行く秘訣、と。
これには全く賛同している。

ただ、別居したくても出来る人と、出来ない人がいる。
出来ない人もいるので、あまり理想を声を大にして叫ぶのは控えたい。
別れるわけではなく、離れて暮らすことを推奨している。
近すぎると、良いものでも悪く思えることがあるから、少し距離を取るとよい。
育児サポート、病気や介護で、夫婦臨戦の危機どころではない状況もある。
夫婦間以外の外的緊張感は夫婦の緊張感を和らげる。パラドックス。

知り合いには、仕事で週の半分は別々に暮らしているという夫婦が2組。
リタイアして無職だけれど、離れて暮らしている老夫婦が1組。
その他は、夫は仕事が夜勤、という老夫婦1組澳洲買樓
妻が仕事で家にいないという老夫婦が1組。
あと、3組は夫が毎日、どこかに出かける老夫婦。
なんだ、老夫婦ばかりではないか。
あ、わたし自体がシニア、前期高齢者だった。
わたしの知る人々は、似たような年齢の人ばかりだから、皆んな老夫婦。
四六時中、顔を合わせず、どうにか仲良くやっている。

亭主達者で留守がよい、と言われても、リタイアして毎日、家にいる夫には夫源病になる妻もいるようだ脫毛學生優惠
不思議と、妻は苦痛でも、夫側は同居を苦にした病気にはならないようだ。
理由は簡単に推測出来る。  
Posted by whiteso at 09:47Comments(0)

2024/10/14

を手当たり次第

押されると引き、引かれると押す。
やりとりから受ける心理的影響は、営業テクニックや恋愛の駆け引きに共通するものがある。

あとは、わたしが、努力する覚悟があるかどうかthermage 邊間好
技量的に精進する気があるか。
自分を出せなくて弱くて、相手に呑み込まれないか。
それと、このAさん、マウント取りたがり。
会話をしていると、不愉快な時もある。
と、文句たらたら。
実際のところ、お人柄に問題あり。
とは言え、誰にでも一長一短、欠点はあり、完璧な人などいない。
明るい良い人なのだが、趣味ペアでガチで組むにはわたしが負ける。引く。

書きながら今までのプロセスを思い浮かべた。
この、Aという人物は、かつて、わたしとの趣味ダンスペアを解消した相手であるMedilase 脫毛
わたしから解消を申し出た。
一旦、解消になったのだ。
理由は、わたしが潰れそうになったから。
自己防衛策。
潰れる前に自分を守った。
それまでだ。
にもかかわらず、Aさんは冷却期間を置いて、やり直そうとした。 
そうっとまた一から始めようとした。
わたしは、拒絶しきれなかった。
そこからまたAさんとの時間が再びやってきた。

そのAさんからの「お願いしますLINE」がなかったのは、解放されたわけだ。
自由の身になった。
かと言って、他に行きたいところもなし。
で、家で読書となった。

①「お願いしますLINE」が来なかったこと。
②「こちらから、お願いしますLINE」を送らなかったこと。
③予定していた時間を使い、他の会場に行こうとしたこと。
④かと言って、単なる暇つぶしで、あまり行きたいわけではなかったこと。
⑤どうしようか迷った挙句、行かないと決めたこと。

そういう経緯がある。
しかもAさんとは、頻繁に練習していた時期が長くある。
これからのわたしの人生の残り時間、どうしよう?に、繋がる。
Aさんとの頻繁な練習をやめた後、わたしはミニ鬱に陥った去暗瘡印
何もすることがなくなった。
代案を用意せず、次のことを考えず、切ってしまった。
考えたのだが、次のことを見出せないまま、とりあえず、苦しい現況を絶ってしまった。
生きがいの大きな一つでもあった。

あれからわたしは立ち直ったかというと、そうでもない。
新たな代案を見出せないまま、つなぎのような、その場しのぎのような.とりあえず代わりのものを手当たり次第、トライしている。
Aさん(復活)も、その中の一つか。
ではあるが、試行錯誤の一環で、まだ道を決めかねている。 
が、Aさんとやっていく自信はない。

満足いく選択にはなっていない。
ぱあっと晴れない。
そうしているうちにも、どんどん健康寿命やダンス寿命は日々、縮まっている。
  
Posted by whiteso at 10:54Comments(0)

2024/10/08

どうにか表面を整え

わたし。こころ空模様。
小さめの下がり坂が来ている。 
小さいが動きが悪い。
はっきりしない気象情報のようだ。

出かけよう、出かけようと思いつつ、ずるずる延ばし、夕方になり翌日になり、翌日の昼を過ぎ夕方になり香港皮秒、、、。
SNSは何も建設的なこともなく、だらだら依存症、、、
読書は、飽きた。
やたら眠くなる。
いくらでも眠れる。
午前中にまたZZZ.....
そんなに寝たら夜が眠れなくなるのかと思いきや、夜も床に入れば朝までぐっすり。
脳みそが溶けかけている。
(自宅で)食事とお茶、トイレ以外は動かない入院状態が続く。
汗がべとつく中、ずっと椅子に座っている。
引きこもり?
あちこち、室内での移動は、好き勝手に色々行くところはあるが證婚套餐
椅子に張り付いたまま。

長女Mに、「次女Rにこの家、あげてもいいと思ってる」と呟いたら、「こんな(しょうもない)家、要らないんじゃないか」と言われた。
長女Mは、うちのすぐ近く(徒歩3分ぐらい?)に家を建てている。

次女Rに、「この家、(将来)あげようか」と言ったら、浮かない顔。
「そうよね、こんな家もらっても、行動の制約を受けるだけよね」と、わたしは提案を弱々しく引っ込めた。
読み終えたばかりの桐野夏生小説では、家を巡って奪い合いする姉妹もいるストーリーだが、そういう中で、親には依存しない自立している子供たちは、嬉しくもあり、やや寂しく残念でもある。
すっかり親を乗り越えた。
親は踏んづけられたゴミ跡のようなもの。
骨肉の争いにはならないものの、もう用済みのものには関わりたくない冷たさが(勝手に)感じられる。

売ってキレイに現金化したなら、貰ってあげてもいい、と考えているのかも知れない。
親の背中は見たくない、過去は引きずりたくない、と、否定されているような気になる。
だが、わからないでもない。
わたしの家は欺瞞に満ちている。
生きていくために、なあなあ主義で、夫婦がお互い不満を持ち合っていても、臭いものに蓋をして、どうにか表面を整え、持ち堪えている。
子供たちもそうだったのかも知れない。
そんな家から離れ自立出来た子供たちは、よく頑張ったと思う。 
今更、戻りたくないのだろう。
わたしが子供たちとの思い出に感じていることも、子供たちにとれば、蝉の抜け殻みたいな、もうどうでもよい役に立たないものなのだろう。
自分たちの新しい家族と新しい思い出を作ることに、前向きに取り込んでいく。
頑張ってね、と応援するのみ。
時折、子守の役に立てそうなことは、引き受ける。
押し付けでもなく、押し売りでもなく、自分の楽しみの範疇で頑張る。
夫もわたしも、甘い甘いじいちゃん、ばあちゃんである。
我々の介護が必要になる日まで、お互い距離を取りながら、子供たちとは楽しみたい。
介護は、できるだけ夫婦で完結したいが、どうにもならない時は、ちょっと手を貸してもらうことがあるかも知れない。
子供の足を引っ張ってはいけないという、遠慮のかたまり。
ぴーんとした目に見えない緊張感で均衡を保っている。

実家など、子供にとってはノスタルジーでもなんでもないようだ。
それに比べると、なぜこうもわたしは実家に愛着があるのだろうuche呃人
愛着を通り越して、執着になっているかも知れない。
嫁ぎ先の家(夫の実家)にも、強い思い入れがある。
長い歴史を紡ぎ、今日に繋がっている。
今の子は、そういう家に対する考え方は全く違ってきているようだ。
核家族の申し子。
言葉に出して胸のうち、その考えに触れると、がっかり落胆する。
出汁を取ったあとの出汁がら、お茶を煎じた後の茶がらのごとく、美味しい良いものが抽出されたなら、結構なことだ。
古き良き時代の思いは、子供たちにとっては、無いのだろうけれど。
この違いは、なんなんだろう。
どこから生まれてくるのだろう。
へんに寄りかかられ頼られるよりマシか、、、
子育ては完了か、、、。
敬老の日は、自分を敬う日だ。

  
Posted by whiteso at 16:27Comments(0)